「紀夢」を読む
西安外国語学院 馬 永平
要旨 江戸後期という激動の前夜を生きていた詩人たちは何を悩み、何を考えていたのだろう。「紀夢」を讀んで、その答えを求めたい。18世紀の末から19世紀の初頭にかけて。関東詩壇をリードした市河寛斎が。自分の人生を見つめ、伝統モラルと現実の激突に苦しみを感じ、「ユメ」の中で伝統思想に疑問を投げつけた。この「ユメ」は詩人自らの告白なので、その内心を理解するに当たって、たいへん重要な意昧を持っている。
キ一ワ一ド:昌平 朱 子学 伝統モラル
はじめに
17世紀に入ってから、日本農村において、生産力の成長は著しいものであった。それは、―つには中世的な土豪経営に代わる新しい自営農民の創出がこのごろになって、ようやく全国的に貫徹したということ、それから、二つにはそうした趨勢の中で領主や商人によって、しきりに新田開発が行われ、農業の経営面積が急激に膨れ上がってきたといぅことである。もちろん、農具の発達、金肥の使用ということも並行して行われた。こういう生産力の成長は都市の繁栄と拡大につながっていた。寛永の頃、江戸は100万の人口があり。京都40万大坂28万というような数字が見られるが、それらが次第に数を増やして、元禄にもなれば、京都50万、大坂38万というような発展を遂げたのである,そしで、都市部め繁栄が、また農村の生産力の発展をいっそう促した。穀物、野菜、木綿などの農產物が次第に都市に流れ込み、商品化していった。つまり、商売が盛んに行われるようになったというわけである。そこで、都会に商人という階層が生まれ始め、更に拡大した。言い換えれば、江戸時代に入ってから、日本経済が従來どおりの自給自足的な封建型から、他人の生活必要品を作ってやり、これを売ることによって営利しようという資本主義型に変わりはじめたということである。
この経済の発展と変貌が江戸社会に大きな変化をもたらしたのである。商売で大金持ちになった商人をはじめ、各階層に奢侈と享楽を好む人が数多く現れていた。この風潮が江戸後期になると、いっそう盛んになっていて、徳川幕府の官学である朱子学が提唱している仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌などの伝統モラルと激しくぶつり合って、それを根幹から揺るがそうとしていた。
市河寛斎
市河寛斎、名は世寧、字は子靜、―字嘉祥、通称小左衛門で、また寛斎、西野、半江、江湖詩老などと号した。寛延2(1749年6月16日川越藩江戸定府の用人役を勤める山瀬蘭台の次男として江戸に生まれ、山瀬新平と名付けられた。寬斎は、「少志学、不愿終老于駄畝」(少うしで学を志し、駄畝に於いで終老するを願わず)とあるように幼い頃には、細井広沢 1658~1735年)の門下である父の蘭台から家学を受けた。その後、大内熊耳(1699~1776年)、河内竹洲 (生卒年不詳)などについて、漢文を学んでいた。
宝暦13 (1763)年、蘭台が62歳で亡くなった。4年後の明和4(1767)年、寛斎が、父親の仕えた川越藩主に召し出され、川越藩に出仕した。
安永4(1775)年、川越藩主の秋元侯が山形藩に転封されることになった。ところが、その藩儒としての寛斎は、秋元侯について山形に行くことをせず,逆に藩の士籍を脱して、父祖の地である上州(群馬県)甘楽郡の下仁田に帰ってしまい、そこで山瀬を捨てて、市川どいう本性を回復しだのであった。この市川は、後になって市河と書くようになって、寛斎の姓としで定着した。
安永5(1776.)年10月、寛斎は下仁田を離れ、再び江戸に出た。江戸では関松窓 (1727~1801年)と知り合い、その手引きによって、林家 (正良)の門こ入ることができた。これは、寛斎にとって非常に重要な出来事であり、その漢文学者へと成長する道のスタートとなった。
昌平実 (林家)に入った寛斎は、学問の面において大いに進歩し、一人前の学者へと成長しつつあった。天明2(1782)年、(詩家法語)というデビュー作を出版し、翌年の天明3(1783)年、第二の著作(古五絶)も刊行した。そして、何よりも「会昌平学員長闕、正良公以子靜補之」(昌平学員長の闕に会い、正良公は子静を以て之を補う)というのだから、天明3(1783)午、寛斎が昌平圏の学員長に任ぜられ、幕府の最高学術機関で教鞭を執ることになった。
昌平禽の学員長となった寛斎が、学問と著作の道を順調に歩んでいた。ところが、天明7(1787)年、老中の田沼意次が失脚する事件が起きだ。意次とは親密な関係にあった関松窓がこれに連座してしまった。寛斎が「川子欽に与う」の中で、「仆于关君長固有卵翼之誼」(僕は関君長に於いてもとより卵翼の誼有り)と言っているとうに、松恋は寛斎を林家に入門させた入だけでなく、林門において寛斎を引き立てた人でもある。そのためか、意次失脚の余波が寛斎にも及んでしまった。天明7年10月、寛斎は昌平の学員長を辞めざるを得なかった。辞職した寛斎が、両国の矢の倉に家を移し、江湖詩社を開いて詩で身を立てることを決意した。この江湖詩社は、甚だ成功したと言えよう。後になって、ここからは柏木如亭 (1763-1819年)、大窪詩仏 (1767~1837年)、菊池五山(1772~1855年)などの優れた詩人が輩出し、関東の詩壇に大きな影響を与えたのである。
寛政2(1790)年、松平定信が、柴野栗山の建議を採択して「異学の禁」を発動しだ。「寛斎漫稿」に収められている「川子欽に与う」に「會昌平学政変革之日、学士先生首挤君长 (関松窓 引用音注)、弟侯 (平沢旭山 引用者注)共除林門名籍。仆亦以學中讀異学之書而削月俸之半」(昌平学政変革の日に会い、学士先生は首として君長、弟侯を擠し、共に林門の名籍を除く。僕もまた学中に異学の書を読むを以て月俸の半を削られる。)と記されているように、寛斎も異学の禁に触れられ、結局、昌平書學員長の辞職に続いて、その教授職も辞めざるを得なかった。
職を失って収入が途絶えた寛斎が、一家の生計を立てるため、やむを得ず寛政3(1791)年に冨山藩に出仕した。この出仕について、彼は「川子欽に与う」の中で、その理由に触れ、次のように述べている。「於是有隔年越中督学之事、固非其志、出自不得已之計也」 (ここに於いて隔年の越中督学のこと有り、もとより其の志に非ず。やむを得ざるの計より出づるなり) 。江戸を離れることを望まぬ寛斎は、富山まで赴任せず、江戸に残って藩のために働くことを条件に、儒官となったわけだが、後になって、藩のほうから富山に来るよう命じられた。これに対し、寛斎はたいへん不満であったが、生活のため、従うほかはなかった。寛政6(1794)年夏、富山ヘ単身赴任に行った。「紀夢」はこの年に書かれたものである。
文化8(1811)年、冨山藩儒を20年もやった寛斎が致仕して、晩年を迎えた。文化10(1813)年7月25日、長崎遊歴のため江戸を発ち、一ケ月半ほどめ旅を経て、9月7月にようやく長崎にたどり着いた。長崎では、寛斎が清の人と会ったり、筆談を通じて彼らと交流したりして、肌で当時中国文学の脈動を感じた。文政3(1820)7月10日、寛斎は自宅で亡くなった。72歳だった。
紀夢
「異学の禁」に触れられ、大きな挫折を喫した市河寛斎が、寛政3(1791)年、富山藩に出仕した。この出仕についで、彼は「固非其志、出自不得已之計也」(もとより其の志に非ず。やむを得ざるの計より出づるなり)と話している。生計のため。やむを得ずいやな仕事をやらなければならないというたいへん厳しい現実に直面した寛斎が悩みに悩んで、自分自身を見つめ、伝統モラルと現実の激しい衝突を考え、朱子学をはじめとする伝統的イデオロギーに疑問を抱くようになり、自分な文学観と人生観を大転換しようとした。 「紀夢」はこういう重要な時期に書かれ、詩人の心をよく表したものである。
それでは。原文を次のように引用する。
予为人之臣子,罗此宪纲,忠孝之道恐不能两全,此于所忧也。少年曰:汝身服缝掖称国子先生高第弟子数十年,乞不读书之人?汝未闻道乎?盖行汝之心哉。予曰:处则为亲,出则为君"予解褐四年于此,上有萱堂安于我,下有妻孥赖于我,尽出于君之德泽,予知命不可辞,故退思两全之计,尚未有得所成就枕不安也、汝何物来扰我思?少年莞尔笑日:难老者心也,虽汝发种种,其心何与吾异?且汝性急也。虽宽以自戒,尤且时见头角 汝何免吾藻鉴哉?往昌平之变,汝独守节义、辞职弃禄,如脱敞履。妻子泣饥,毁誉交臻,汝全然不屑。孤立袒左林氏。林氏以安。我以汝足有为。今汝象恭自欺,我能知汝心:尽告以实。予疑其试予者,乃曰:詹尹云,数有所不逮,神有所不通,用君之心行君之意。汝少年口尤乳臭。焉得知我心所存哉?于是少年赫然起色,进枕头日:吾住汝胸膈之间四十余年,言行动作无我不所闻。方新命降。汝屏吾脐下不就吾谋,独擅汝行。夫操则存舍则亡。吾之谓也,汝欲永亡吾乎?苦请数汝罪。
汝莁仕之初,固辞徒家之命。云不允则罢。及新命降、应如影响,未尝片言为辞谢,何与襄日言异邪?汝学圣人之道而不能践其言。谓之信可乎?罪一也。汝受命官长前,果知其不可辞乎?将畏逆鳞乎?与其获罪官长,不如恭顺逊辞求媚于上,以谋之他日为胜。汝学圣人之道而不能临事行其志,谓之勇可乎?罪二也。汝迎母羽州、筑别窒于屋后,春花秋草任母所喜、孝养未遂 一旦欲弃去。慈孙九人,含畅所弄,其如生别离何?汝学圣人之道而使骨肉所失?谓之孝可乎?罪三也。去岁板舆远到,汝兄随侍,劳其为何?今母将归,以近意之龄载忧千里之路、谁其相从?汝身在此,面别尤不能,何况改辙他邦?乞何允?汝兄亦诸侯之人。不能数数越疆。汝欲置母何地乎?各天兄弟何以乐乎?汝学圣人之道而不能兄弟好合、谓之弟乎?罪四也。命之使降、尤易为辞,命之既固,其如之何?不孝不弟之罪汝自取之也、虽然。其从汝游受汝业者皆爱汝者也,或谓君背约徒汝,使汝不孝不弟。亦未可知也。此汝不能谋之始以遗忧也。学圣人之道而使人消汝君,谓之忠可乎?罪五也。闻学宫创造,藩士大夫入侍讲席者毂击肩摩,今尤是否?夫有始无终俗士之常。亦何足怪?汝称府学祭酒。抗颜为人师,学之兴废。民其而瞻。昔百里篱羊,张翰思鲈,人谓之知机。汝学圣人之道而不能先事而谋、谓之智可乎?罪六也。汝移家于此,其俸既减半,妻孥百指,果农给食足,若饥寒踵至,将仰之谁?汝学圣人之道而不能为妻子谋,谓之仁可乎?罪七也。夫和妇顺家之福也,妻之从夫,尤臣从君也,汝已徒此,妻乞不从?虽然,渠亦人之子也,汝以自取之祸使人子永离其父母,夫思土者情也,士君子且不免,何况妇人?汝学圣人之道而不能使其妻安室。谓之和可乎?罪八也。汝儿资性落落似父,侍汝学会估毕是物,吟哦讽咏旁及临池,冀乎一当海内作者,其志可善。汝携之僻邑将使碌碌终身乎?汝学圣人之道而不能便子成立,谓之慈可乎?罪九也。韩退之曰:行则宜之谓之义。今视汝所行陷君不义,弃母不养,兄弟离散。夫妻反目,尤且甘受数石之禄长为他乡之鬼,而汝独快于心邪?汝学圣人之道而不能行而宜之,谓之义可乎?罪十也。凡此数者有一于此,尤不可以为人,汝负此十大罪。恬不知省,尤且欲口给以禀人。吾不知汝面皮厚几寸,吾欲痛殴汝面,使汝耻死。直握予发、攘臂将殴。予欲大号,声不出口,汗盎背而醒。乃寒灯欲灭,邻鸡已报晨。
結論
「紀夢」が描いた「ュメ」は、作者が実際に見た「夢」とは考えにくく、フィクションの可能性が極めて高い。仮に同じような夢を寛斎が見たとしても、それは条理の立たないめちやくちやなものにすぎず、「紀夢」のような論理牲の非常に良いものにはならない。したがって、これは「夢」ではなく、作者が夢という名目を借りて、現実を論じたものと考えられる。
「紀夢」は韓非子の寓話「病入膏盲」を連想させる。特に「發も目も赤く、顔が厚く紅色に塗られているかのように真っ赤で、赤の袍を着ていた」少年のイメージが二竪子によく似ている。これは寛斎が古文辞学の影響をまだ捨てきれなかったことを示すものとなる。
このフィクションの少年は、作者の「胸と膈れ間に四十年余りも住んできた」(作苦は当時44歳)だから、作者の生まれつきの人間性とみてよいであろう。―方、作者は「縫掖という国の高官しか着ることのできない服を着ている人間で、最高レベルの先生の優れた生徒と呼ばれるようになってからも数十年の月日が経ってい」て、本を読んで、「道」の分かる人である。これは作者の体の中に、「道」といぅもう―人の「予」がいるということを意味している。しかし、この「道」は生まれつきのものとは違って、「国子先生」(幕府の官学である朱子学の先生を指す)によって、教え込まれをものである。「紀夢」は(少年)と「道」の激しい衝突を展開し、朱子学をはじめとする伝統的イデオロギーの偽善性を猛烈に批判した。
― 「道」と「人間性」の両立が不可能
上司が 「春になっから、江戸から奥さんと子供をこちらに迎えで、富山に定住しなさい」と私に命じたとき、私は 「それはいけない」と心の中で思っていた。しかし,藩の命令だし、断れなかった。ところが、心はどうしでも落ちつけなかった。
つまり、当時の封建的社会構造とそれに応じたイデオロギ― (朱子学)は臣に「君の命を違うべからず」と守らなければいけないと要求していた。ところが、作者の本心(人間性)としては、やはり「それはいけない」と思って、不安を感じた。このような「道」と「人間性」の格闘の中で、作者ははじめに「憂うつ」を感じ、どちらに従うべきかが分からなく、かなり迷っていた。そこで、「両立の方法を考え」ようとしていた。そこに「少年」が現れ、作者の妥協的態度を厳しく批判した。「少年」は「あなたが私を擠の下に閉じ込めて、相談もせず、独断専行しようとした。使えば生きていける、捨てれば亡くなってしまうがこの私である。あなたは私を永遠に亡くそうとしているのではないか」と言つて、「道」と「人間性」の両立は不可能だと主張した。そ二で、更に作者の罪を十も列挙した。
その罪は、「不信」、 「不勇」、 「不孝」、 「不弟」、 「不忠」、 「不智」、「不仁」、 「不和」、 「不慈」と,「不義」であった。
二 「道」を捨てるべし
―見すれば、十大の罪は朱子学など"提唱している信勇孝悌忠智仁和慈義などの行動規範を守らなかったことに対しての問責のようであるが、実はちょうど逆で、それを死守しようとする作者の態度を批判したものである。
それでは、「少年」が伝統的イデオロギーの代わりに、どんな新しいモラルを追求しようとしているのだろう。罪の三と五を例にして見よう。
罪の三は「不孝」であった。
「あなたは母親を岩手より迎え、自分の住まいの裏に別室を作り、春になれば花を、秋になれば草をと、お母さんに思う存分に楽しませていた。これからも親孝行を続けていかなければいけないだろう。しかし、あなたは現在母親―人を残して、妻と子供をここに来させようとしている。お母さんにとって、九人の孫がみんな自ら苦労して一人一人育ててきたもので、彼らと別れるのが死に別れることのようで、辛いだろう。」要するに、母親を孫などの肉親と別れさせ、辛い目に会わせることが不孝となるわけである。ポイントはここで言われる「孝」である。それは、もはや朱子学などが訴えている義務的なものではなく、肉親間の甘美な甘えと変わっている。つまり、「少年」は、夫婦や親子の愛が人生の指針で、最高の目的として掲げだのである。このような。「マイ.ホーム主義」が、封建主義的とはとても考えられない。
罪の五は「不忠」であった。
「命令が降りたばかりの時なら、まだ断る余地が残されていた」、「主君が約束を破って、あなたに引っ越しをさせたので、不孝不弟の罪を負うべきだ」などが、どうも無条件の忠誠心が要求される伝統的な「忠」とは正反対のように思われる。ここでは、臣下が主君の命令を断られるだけでなく、主君の責任も追究できる。これは主従的関係の「忠誠」が全く見当たらず、完全な「平等」関係となっており、近代社会の雇用関係とはほとんど変わらない。
このように、十の「罪」に対し、「少年」はことごとく完全に個人的情念の観点から見ており、伝統的イデオロギーの倫理観を容赦なく否定し、個人重視、人間平等などといった近代的個人主義の新しいモラルを提起した。これは市河寛斎のこごろでもあろう。
参考文献
<寛斎先生遺稿> 小山林堂蔵本
<日本漢文学大事典> 近藤春雄 著 明治書院
昭和60年3月20日 印刷
昭和60年3月2日 発行
<寛斎漫稿 書 半江書簡> 孫 三兼再聚
曽孫 三場校
<寛斎先生餘稿 寛斎摘草> 遊徳園蔵本
<日本近世の思想と文化> 奈良本辰也 著岩波書店
1978年1月20日 第一刷發行