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基礎日本語の教授法について
更新时间: 2009-2-6   来源:   点击数: 289

基礎日本語の教授法について
成都體育學院
李 義清
周知のように、普通教授法について、よく問題とされるのは、学習者の基礎段階の学習というものである。日本語の基礎段階の学習に関する教授法は,これまでに種ケ様々なものがあり、いずれもそれなりの原理と利点があることは言うまでもない。しかし、実践上授業中、一体どういう教授法を採用すればよいのか、ということは、教える者なら誰でも何より先に直面する問題である、それは、どれが日本語を能率かつ効果的に教授指導する  ことに機能し役立つことができるかということによって決るわけである。―方、また学習昔の目的、条件などによっても、教え方はそれぞれ異なるという面もあったりするので、 日本語の教育面での絶対的教授法は、おそらくないだろうと思われる。
  ここではまず何種類かの教授法を紹介しよう                              --
1  問答法
教師が発問し、学生はそれに答えることによって、発音、イントネーション、文構造、使われる場面を学びとる方法である,学生の母国語または媒介語による説明は、教室作業の中にはない。教室作業は専ら学習される言語 <日本語の場合は日本語>のみで行なわれる,媒介語で書かれた解説書は教室外で使用するのが原則である。この方法は、大正年間に文部省の英語教育顧問として来日した英国人、バーマ―Palmer,H>博士の提唱した教授法であり、長沼直見がそれを日本語教育に応用したのが始まりとされ、実は言語文化研究所附属東京日本語学校において、開校以来研究を重ねながら実践してきた教授法でわる,
2   アーミー.メソッド
第二次世界大戦中にアメリカが行ったArmySpecializedTratningProgram(陸軍特殊教授法、ASTPと略される)で採用された語学教授法である。それは、当時ポアズ(Boa,F)サボア(Sapir,E)など、アメリカの構造言語学、記述言語学と呼ばれる言語学者たちはインドデイアンや太平洋の島々の言語を研究していたが、その考え方として、言語の基本は書き言葉でなく、話し言葉であるとし、特に音声の研究を重視し、更に文構造の分析研究を発展させていだ。アーミー。メソンドは、この言語学の考え方を採用して、学習する外国語を母語とする者が話すこどを、できるだけ正確に流暢に模倣し反復することによって記憶し、究極的に外国語が自動的習慣となることを目標としたものである,
3  ナチュラル。メソッド
グラマー。トランスレ―ション,メソッドが表現能力と口頭言語の面を軽視することを批判して。幼児の自然な言語習慣過程を外国語教授法に取り入れようとして生まれた教授法をナチュラル。メソッドと呼ぶ。特にべルリッツ.メソッドを指して言うことが多い。その教授上の特色は、(1)母語を使用せず、完全な直接怯を採用する,(2)教師は教える外国語を母語とする者でなければならない。(3)幼児の言語の習得法に従って、発音練習は組織的にほ行わず、教師の発音を模倣することによって自然に体得させる。などが取り上げられる。
4  ミシガン,メソッド
1945年ごろにアメリカのミンガシ大学の教授であるフリーズ (Fries,C) が構造言語学を理論的背景として提唱した方法で、フリーズ。メツヅドとも呼ばれる。この教授法は 一口言うと<学習者が外国語をロ頭で発表する能力を獲得するという目標に到達する道筋に関する原理はどのようなものであるか>に関心を持った方法と言える。関心の中心は、 <原理>,にあるのであって実際の指導法ではない。ぞの言語習得観には、3段階がある,第1は、限られた語彙を使っての音体系有習得。第2は、文構造の習得、第3は、以上が自動習慣化する。
以上代表的な教授法を若干挙げで紹介してきたが、ぞ代外に、またオーラル.メソッドやミム,メム教授法、グアン式教授法、グラマー。トランスレンション.メソッド、バタン.プラクテス、プロジェクト.メンッドなどがある。それらのものを見てわかるように、それぞれの理論に基づいて、ある範囲においてある程度教授上の効果を挙けた,つまり、ある限定された条件の下で、いぞれもそれなりに多少有効であったことは、疑いはないことであろう,そこで、われわれは、一体どういう理論に基づき、どういう条件が与えられているのであろうか,という問題が残る。
つぎに、先ず人間の言語習得の正しい習性があることについて少し述べてみたい。こうした前提があるからこそ、われわれ人間が外国語が学べるからである。
人間は生まれながらにして言語習得者の能力があるのである。自分の母国語の習えなかった人はほとんどいないだろう。どんな稽古でも習得するには、それ相当の意識的な努力が必要である。外国語が習得できるには幼児なら容易にできると認められる。なぜなら、日常生活において母国語を駆便する技術だけは、意識的に知力を働かせることなしに上達するのである。幼児は母国語に限らず、外国語を習う場合にも、この能力を発揮する。しかし、大人になってしまうと、この能力はさびついてしまう,しかし、この能力にもう―度活力を与えれば、成人でも容易に外国語が習得できるわけである。この活力はひとつは自然に与えれる力で、もうひとつは意識的な努力は非常に重要である。換言すれば、眠っているその習性を覚ますために、どうしても意識的に練習をかさね努力していかなれけばならない。
―方、また誰でも分かるように、幼児は大抵大人の言うことを大人の行動にあわせてじっと観察し、また大人から聞いた言葉を繰り返してまねてみる。聞いた音と意味とを自分で結び付ける。こうしてよく観察することによって、まだ自分で使っては訂正を受けることによって、意味内容を充実させていく。そして、覚えた語や文型をまねて自分が文を作り出す,これらの方法と原理は、成人の外国語の学習にも活用できると考える。つまり勉強はまねることから始まり、また、試行錯誤を繰り返してはじめて習得できるということである。
また、日本語教育家である木材宗男氏が、かつで成人に対する日本語教育のありかたについて、つぎのような指摘がある,
<成人―般の日本語学習では、業務のために必要とする日本語能力も目標とするものと、日常生活の必要な能力を目標とするものとがある。業務のために学習有目標は、業務内容によって異なる。在日企業の経営管理、市場調査、広報活動等に従事するものは、日本の大学への留学生と同じ程度の日本語能力を目標としなげればなるまい,それに対して、日本人相手のザ―ビス業務に務めることを目的とするものは、限られた内容の会話能力を目標とすれば足りるであろう。日常生活に必要な能力を目標とするのは、生活の便宜上日本語を学習しようとするものである,これには、日本滞在が長期にわたり、日本人社会の中に溶けこむものと、技術研修員のように、短期のものとで、目標の水準が異なる。教養ないし趣味として学習するものも、おおむねこれに準じる。そのあど、本人の学習意欲によって、つぎつぎと目標を設立していぐわけである。>氏は、目的が違えば、学習に要求されるものも違うことをおっしゃているようである。
現在わが国における日本語教育はほとんど大学生つまり成人を対象とする,しかし、一口日本語学習者といっても、それぞれ目指すものは必ずしもみな―様であるとに限らない。例えば、日本語を専攻とする学部生や日本語を研究して修士号、博士号を求める人など、いわば専門的に日本語の学習、研究に携わる者から、―般社会人といったような、―応語学能力を身につけていればよいという者までもあり、実に様々である,その上、学習形態や環境などの条件上の違いもあって、学習者の目指すものは当然あれこれと異なっているわけである。それぞれの目的、そして条件などに応じて適当な教授法をとるのが、実に大事なことであると私は思う。
また、わが国の大学、高校における日本語学習の多くは、外国語科目として、一般教育課程の下に配置される傾向が強く、学生の実用能力の養成というよりも、知識、教養の面に重点が置かれるのがふつうである。かれらは、ほどんど日本語の学習を通じて、日本人、日本社会についての知識を得ることを目標としているという特徴を持つことを見過ごしてはならない。かれらの学習は、短期間に完成されると見込れ、つまり初級日本語の学習が期待されるのが特徴的である。
そこで、教える側に立てば、短い期間にそれらの学習者に日本語を習得させることこそ、われわれ日本語教育者の主たる任務となっている。日本語も含め、外国語を習得するためには、一般に長い期間に忍耐強く努力を重ねていく姿勢と行動が必要であることは言うまでもない。かれらは、初級の学習を終えた後、独学で学習を続けるしかないという状況に置かれる人が少なくない。という意味からでも、かれらにとって、入門期における正しい
基礎作りこそ―番大切なのだといえよう,これから教師に教わる機会が二度とないからである。
なお、―般に、初級 (基礎段階)学習は易しく、中級はちょっと難しくなり、上級にまで進むと、最も難しいなるだろうと考えられがちである。しかし、実際は逆であって、基礎段階にこそ、良い教材を使い、練達の教師に師事すべぎである。このようにしないと、良い基礎作りができないだろうと思う。基盤が弱いままで、進級させるようにすると、後に覚えるべき語彙や文法規則などが盗々多くなり、字音内容もより複雑になるにつれて、日本語能力はよりめちゃくちゃになってしまうおそれがある。つまり、良い教材と良い教授法は、良い基礎作りができるかどうか、ということに密接に関っていると考える。
では、基礎段階というと、―体どういうものであろうか。同じ木村氏が <―般に初級といわれるのは、学習の開始から約200~300時間の授業時数をかけて行なわれる学習段階である>との指摘がある。この授業時数によって、ちょうどわが国の大学が第―学期から第四字期までの授業時数に等しい。機関によっては、もっと少ない時間数の、短い期間を初級として場合もあるが、一般に言われる<初級レベル>の学習目標に到達するには、300
時間を必要とするといりのを―応基準と見てもよいであろう。

以下、主に初級レベルの学習目標とそれに到達する教授法についてこれまでの経験と感想をふまえ、自分の考えを少し述べたいと思う。
初級の学習目標は、音声.文字両面にわたる学習の基礎的能力を身につげることである,即ち、日本語を聞くこと、話すことによって、日常生活の簡単な内容について、意思疎通を行う能力と。その内容を文字によって表したものを読んで理解することと、自らも文字によって表現する能力を得ることである。これを言語要素の面から言うど、具体的につぎのような事項が含まれると思う。
先ず、音声については、日本語の音韻とアクセントについての知識と正しい発音のしかたを学ぶことである,日本語の音韻組織は、ほかの言語と比べて比較的単純であって、習得しやすい面があるが、特殊音節と言われる「ひく音」  「はね音」を正しく発音できるようにさせること、特にアクセントを正しく発音させることが大切である,それには、音節の拍を明らかに意識させること、アクゼントが強弱ではなく抑揚アクセントであることを教え、そしてアクセント型についても明確な概念を与え、繰り返し練習させ、それを正しく発音させることなどがある。
文型については、種々の見解があるが、文型による応用的表現能力を得ることを第一の目標とすべきである。知識不足のため、文型に見られる文法が理解しにくいところもあるので、なるべくそれへの解釈を避けるようにする。つまり、文型を理解したうえ上暗诵させるようなことはさせずに、逆に、学生さんに暗诵させ、実践に活用させていくようにと指導する。そのうちに意味。構造および用法などが、自然にマスターできるわけである。
何といっても、できるだけ多くの文型を覚えさせること、初級段階の学習においては極めて重要なことであると思う。
文法は、助詞の機能、活用語の活用、受け身、使役、敬語についての概念と正しい使い方なのである。例えば、  「は」と「が」の使いわけや同じ格助詞でも「に」と「で」の区別、日本語における省略などが、初心者にとって大変厄介なものである。日本語は膠着語であるため、学生に文法を説明する場合、<体言十が 「は」>全体は中国や英語などの文の主語またはほかの成分 「主題」に相当するというように教える。つまり、私流に言えば「加減法」で教えるわけである。主語となる場合 「体言+が」、客語となる場合 「体言+を」といったように説明したりする。そうすると、学生さんが比較的容易についていけるようになる。これはなかな効率的教え方であると思う。
語彙は、教え方にもよるが、約,1500―2000話と語構成の基本的知識などが含まれると思う。先ずは、和語を、それから漢語をもすこし覚えさせるようにする。ただし、語形が同じであるからといっても、意味上ずれているものがかなりあるので、適当にそのずれを指摘し、または基礎段階においてなるべく和語を使うようにと注意する必要もある,それは日常用語には和語が多く使われる上に、日本語の根幹を成しているからである。要は漢語の教授は控え目にすることをお勧めしたい。また、上位語や下位語の知識まで例を挙げながら適当に教えることも行なわれ得ると思う。面白いから、学生が楽し方ながら勉強できるからである。
文字は、平仮名と片仮名、そして基本的な漢字と約500の通常音訓と読み書きが目標となる。平仮名語を中心に教えることは、もちろんだが、近来外来語つまり片仮名の急増にともない、片仮名語への読解も要求されつつあるのが実情である。そのために、片仮名の教授にもすこし力をいれるようにと心掛ける必要があるように思われる。特に、理科系の学習者には、片仮名の学習がより必要であると思う。
要するに、これらの言語要素を、適正に配列した教科書を使用して、聞く、話す、読む、書くの四技能の基礎的能力を身につげさせることが初級レベルの目標である。教科書に関して言えば、わが国の学習昔の日常生活の場で必要とされる会話、あいさつ、自己紹介、日記、書簡など、色々なジャンルのものが求められる。この段階では、現代口語文による読み物は、ふつう与えられない。文字は専ら、音声を追いかけるよjにして使用されることが特徴のひとつとして取り上げられる。
なお、日常生活というと、すぐに日本人同士のくだけた言い方による会話などが想起され、それも目標に掲げるべきではないという考えかたをする人もあるが、初級レベルは学習の基礎となる段階であるから、学習上の混乱をきたすような表現は避けるのがふつうである,そこで、簡単ながらも正確かつ規範的日本語で会話ができるようにというのが原則として常に念頭に置くべきだと思われる。
―方、初級段階において、主として語学の教授。指導を行うべきであるが、時々日本文化に関連づけて、言語の背後に隠れた文化的現象を説明解釈するのも有効である。例えば、日本語表現上の暖味さや、人称代名詞の使い方などが、―見言語問題であるかのように見 えるか、実際、日本文化とも密接に関係あることは、これまでの研究に立証されている。また、文化にせよ言語にせよ、比較方法を用いることによりそれぞれの特徴を浮き彫りにしようとする、つまり、文化論や比較方法などを適当に導入するのも―案としてここでお勧めしたい。
最後に、日本教育においてぅよく忘れられがちたのは、訳す能力の養成である。初級段階にそれは常に無視されてきたのは、それなりに理由があるのである。しかし、私個人の経験では、やはり時間。条件が許すかぎり、それについて教授、指導する必要があると思わう。というのは、母国語の善し悪しは、外国語の学習にも関係あるように思われる。日文中訳の場合、正確かつ流暢な中国語に訳せないと、その日本語がわかりきっだことにならなし、逆に、中文日訳の場合、日本語で正しく通訳できることはもっと要求きれるのではないかと思う。訳すことは、頭機能の転換である―方、頭を磨くことにもなるということで、語学能力の養成には大いに役立つにちがいないと思う,成人の学習であるからこそ、訳す能力が求められると考える。

日本語教育に携わって以来、はや20年間以上も過ぎ去ってしまったが、感想や述べたいことはまだまだあるが、紙幅の関係てこれで筆を措かざるをえない。

参考文献
日本語教育事典     日本語教育学会編   大修館書店
国語概説   佐伯哲夫  山内洋―郎     和泉書院


 
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对不起,暂时没有内容!

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