日本語における助詞「は」と「が」の意味、用法の相違
一、ねらい
中国で日本語を教える時に、よく学習者に質問されるのは助詞の使い分けの問題である。中国語にも助詞はあるものの、日本語ほど複雑で多くないので、助詞の理解に困難さが伴う,助詞の中で取り分けて「は」と「が」の使い分けは学習者にとって最も習得し難いものの一つである。例えば、
私は王紅です。-->我是王紅。
私が王紅です。-->我是王紅。
この二つの文を中国語に訳せば、どちらも「我是王紅」になる。ぞの相違点がどこにあるのかは。訳文だけでは表現し分けるこどができない。「は」と「が」に関しては、従来から日本の数多くの学者によって、多方面からかなり論じられてきた。本稿の目的はその研究成果を取り入れながら外国人日本語教師の立場から「は」と「が」の意味、用法を明確にし、中国語話者の日本譜習者に対して分かりやすく難問の解答を与えることにある。
二、「は」と「が」の相違点
1、既知と未知
互いに情報の交換によって話は成り立つものである。情報の中に聞き手(或いは話手)の知っていることと知らないこどがある。つまり「既知情報」と「未知情報」からなっている。「は」はその前の物事を既知のものとして提示し、その後に未知の事柄を説明する。それに対して、「が」は物事を未知として提示するのである。先に挙げた日本語学習者に難しい例文を見てみよう。
(1)私は王紅です。
(2)私が王紅です。
この二つの文を比較して見れば、「あなたは誰ですか。」という問いに対して「私は王紅です。」と答えるのであろう。「私」なるものは既知のあのとして扱われ、それに関して、「王紅」というまだ知られていない未知の情報が伝達される。それに対しで、「誰が王紅さんですか。」という問いには「私が王紅です。」と答えるのである。「王紅」が既知のものであり、「私」という未知の部分が伝達されているのである。強いで言えば、この二つの文は「王紅です」「私が」だけで、他の部分は省略しても話は通じる。文章としてこの二つの文を中国語に翻訳する場合は、その区別が分かりにくいが、話し言葉で訳す時に「私は王紅です。」を「我是王紅」、「私が王紅です。」を「我是王紅。」のそれぞれの「王紅」と「我是」の点をつけた部分を強調して強く発音して言えば、その日本語文の意味上の違いを表現し分けることができるど思う。また、
(3)月は出た。
(4)月が出た。
を見てみよう。「月は出た」と言えば、「月」はどうしたかという問いに対して、「大きい」とか「丸い」とかではなく、「出た」という説明が加えられたのである。「月」は「は」によって既知扱いをされて、後に説明が来て文が完結することを要求する。これに対して、「月が出た。」という時、「月」は「出た」ということの能動主体として提示されているとともに、未知の情報として提示。点出されたのである。
こうした既知情報と未知情報ということの適切な例として、日本人のよく知っている民話がある。その民話の冒頭の部分を見よう。( )の中に「は」と「が」のどちらを入れた方が良いのだろう。
(5)昔々、ある所に、お爺さんとお婆さん(①)ありました。お爺さんく②)山へ柴刈
りに、お婆さん(③1川へ洗濯に行きました。
はじめてお爺さんとお婆さんの提示される時は未知の情報(新しい情報)として「が」が使われ、―度提示された後は。お爺さんなお婆ざんは二回目の登場の時、既知の情報(古い情報)としてその後には「は」が使われる。「は」の後には未知の情報として説明と叙述が加えられる。だから、①には「が」を、②ど③には「は」を入れるのである。
以上を図示すれば、
<既知>は<未知>
<未知>は<既知>
のように表わすこどができよう。
原則的に既知の後に「は」、未知の後に「が」が便われ、「は」の前に、疑問詞が使われないのである。つまり、疑問、不定の内容が既知だということはあり得ない。だから、主語が疑問詞の場合は「が」が直後に付く。疑問詞で質問されたものに答える時も「が」を使用する。「どなたが王紅さんですか。」「私が王紅です。」というような具合である。もし、「ここはどこですか。」というような述部に不定の名詞、疑問(代)名詞をもつ文の場合は、その答えも「は」を使い、「ここは病院です。Jど言うべき、「が」は使われない。
2、主題と主語
「は」という助詞は、係助詞で、格関係っまり物事の事実の関係を明確に限定するものではなく、ただ、話題の場を作る。そしてその後に説明や判断を求める助詞である。例えば、
(6)地球は丸い。
(7)犬は動物である。
この二つの文も例文③「月は出た。」と同じように、「地球」と「犬」は誰でも知っているもので、その後に「地球」ほ「大きい」か「丸い」か、「犬」は「吠えている」か「動物である」かという未知の部分を説明あるいは判断するのである。
「が」という助詞は本来、体言を承けて体言にかかる助詞である。「君が代」。「わが国」のように、「が」の前にある体言と一体となって後に来る体言の連休修飾語をつくっていたが,現代語にはほとんどない。今は格助詞の一つとして用いられ、その動作、作用を行なう主体、またその性質、状態を有する主体を表わすようになっている。例えば。
(8)バスが来たよ。
(9)雨が降っている。
格助詞と係助詞の相違は、構文上から言えば、格助詞はただその前の名詞と述部の動詞との倫理的な関わりを示すのであるのに対して、係助詞は文全体と関わって、文末(陳述)と呼応するものだと言える。だから、総主語のある文の場合は、大主(主節の主語)に「は」、小主(従属節の主語Ⅰに「が」が使われる。こういう場合の総主語あるいは大主は主題ども言える。
一つの主題の中に複数の小主語が含まれることがある。
「は」と「が」の問題でよく使われる例文に、
(l0)象は鼻が長い。
というものがある。「象」を「は」によって主題として設定し、「鼻が長い」は「象」という主題についての具体的な説明であり、「鼻が」が「長い」の主語で、文全体と関わりがない。文全体と関わりがあるのは「象は」である;「象は」の後にいろいろな説明文が加えられる。
「目が小さい」「足が太い」「腹が太鼓のようだ」などのいずれも「が」は「目」「足」「腹」といった小主語としか関わらず、文全体と関わっていない。もう一つの例を挙けると、
(ll)私はみんなが来るのを歓迎します。
「私は」という主題(大主)が文末の「歓迎します」という述語ど呼応するものである。何を「歓迎します」かというと、目的語の「みんなが来るのを」「歓迎します」。「みんなが」は「来る」の主語(小主)である。復文における従属節中の主語には、特別の場合以外は「が」が使われ、主文に「は」が使われる。例えば、
(12)雨が降っても私は行きます。
この文の大主は「私は」で、大述の部分は「行きます」である。「雨が降っても」は全句の条件を表わす従属文で、「雨」は「降る」の主語である。また、
(13)父が買ってくれた本は面白かったです。
のように属文が連体修飾語になる場合は、属文の主語の「が」は「の」に置き換えられる。「父が買ってくれた本」を「父の買ってくれた本」に置き換えても、文法上の意味が変わらない。ただし、「父が買ってくれた本」の場合は、話題の焦点が「父」で、「父が買ってくれた」こどを客観的に表現しているのである。「父の買ってくれた本」の場合は、話題の焦点が「本」で、それを「買ってくれた」父に対して丁寧の気持ちが含まれているのである。
3、動作の主体と対象
希望、可能、能力、内部感情、感覚、必要などを表わす場合は、文の意味上でその動作の主体を表示するものとして「は」が使われ、その具体的な対象を表示するものとして「が」が使われる。例えば、
(14)私は自転車がほしい。
(15)私は水が飲みたいです。
(16)王さんは日本語が話せます。
(17)私は英語が下手です。
(18)私は蛇がきらいです。
(19)あなたは黒板の字が見えますか。
(20)私はお金がいります。
形容詞、形容動詞は、もどもと状態を表わすものであるから、例外なく「が」をとる。動詞は概しで動作を表わすものであるが、例外として状態を表わすものが少数ある。動詞の「たい」形、可能を表わす「れる、られる」形、及び「できる、わかる、聞こえる、見える、ある、要る」などがそうである。ただし、動詞の「だい」形の場合は「私は水が飲みにいです」「私は水を飲みたいです」の「が」「を」の両方をどれるが、「自転車を購入したい」となると「が」を用いれば、不自然な表現になる。―般に、完全に口語化されていない漢語系の動詞の「たい」形は。「が」をとりにくいようである。「自転車がほしい」とか「水が飲みたい」といった希望、「日本語が話せます」という可能、「蛇がきらいです」とか「お金がいります」とかの感情や必要。これらは基本的には、否定文で「が」が「は」に入れ替わる。また、「ペンがあります」とか「生徒がいます」といった存在句の否定文も「が」のかわりに「は」が使われることが多い。前にも述べたように「は」はその前の部分を問題として出し、その後に答えや説明を加える。主語部を強調する場合は「が」、述語部を強調する場合は「は」を使うと言ってよいのであろう。
4、判断文ど現象文
(21)雪は白い。
(22)雪が白い。
(23)太陽は東から昇る。
(24)太陽が東から昇る。
抽象的記述を行なうものや。普遍的事実、真理、法則を述べる場合には「は」起用い、眼前の場面をそのまま表現する時には「が」を用いる。「雪」と「太陽」は誰でも知っているもので、それぞれ「白い」「東から昇る」ということも普遍的真理、法則であるから「は」が使われているのである。そのほか、発見、感嘆の場合も「が」が使われる。例えば、眼前に家が燃えているのを目撃して、驚いて発する言葉は次のようであろう。
(25)あ、家が燃えている。
これについで、松村明氏が≪主格表現における助詞「がⅠと「は」の問題≫で「この場合には、主語を示すに「が」以でするのが普通であって、≪あ、家は燃えてみる。≫というふうに表現はしないであろう。かやうに全然新しく頭に入った知覚表象をそのままに表現する場合の主体を示すにはⅠが」が用ひられる。どころで、その「家」なる知費表象が概念として頭の中に固定し、それについて何かを述べる場合には、もう「が」ではなく、「は」を以てするやうに変ってしまう。
あの家は居酒屋だ。
これはその「家」について考へるだけではない。その「家」に関連したものは―頭の中に入ってみるから、皆「は」を以て示すようになる。」と述べた(≪日本の言語学、第三巻、文法1≫ 583頁)。「雪は白い」「太陽は東から昇る」のように、「は」で示されるものは、一般の人々に既に概念として存在しているものと認められるから、その既知のものについてのある事実を述べているのだと解釈することも出来ると思われる。
5-1、対比の「は」
「は」は対比する他方と対比させて示したり、否定表現と呼応し、対比的に否定を強調したりすることができる。例えば、
(26)ビールは飲みますが、酒は飲みません。
(27)日本語は少しは分かりますが、フランス語は全然分かりません。
もちろん、必ずしも対立ずる文だけではなく、単なる並列を表わす文も「は」を使うことができる。
(28)兄は技術者で。弟は大学生です。
(29)兄は工場へ行き、弟は学校へ行きます。
これも今まで述べた既知と未知と同様に解することができると思う。即ち「が」は未知のものを承けて主語部を強調的に述べるのに対して、「は」は既知のものを主題として取り立てて述部に説明と回答を求めるのである「兄」と「弟」は同じ既知のものとして提起して、その後に「技術者」や「大学生」という職業、「工場」「学校」という行く場所を述べている。「兄」と「弟」は大主と小主の区別、主文ど属文の区別がなく、同等の主題として並列に提示されたのである。だから、「兄」も「弟」もその後にⅠは」が便われている。
5-2、取り立ての「は」
「...は」が「...について言えば」の意味で主題の提示に用いられるということは、次のような使われ方もある。
(30)手紙は今日出さなければいけません。
(31)日本は山が多い。
(32)今、書店は「目漢辞典」を売っています。
ここの「手紙は」「日本は」「書店は」はそれぞれ「手紙を」「日本に」「書店でⅠに置き換えることができる。三上章氏はこれらをそれぞれ、「ヲの代行」「ニの代行」「デの代行」と呼んだ。私は「代行」どするよりも、取り立てとしだ万
方がより適切であると考える。「手紙を今日出さなければいけません」はその前に「私は」か「あなたは」とかいった主題があるはずで、「手紙」はただこの一句の目的語にすぎない。「手紙は」「日本は」「書店は」はそれぞれ話題の主題として取り立で強調されて、その後の述部に其体的な説明と答えを要求するものであると思う。
S、「は」の接続
「は」と「が」の接続について見ると、「が」はもっぱら名詞や体言相当のものに接続するのに対して。「は」は極端に言えば、「が、を」以外のほとんどの言葉の後に接続することができる。ここでは多用な「は」の接続についで概観することにする。
名詞に付く用法は既にいろいろ述べたので、ここで省略しておこう。
動詞の場合はその連用形に付く。例えば、
(33)ご恩はけっして忘れはしません。
(34)こんな所、二度と来はしません。
形容詞の場合はその連用形(く)に付き、形容動詞の場合ばその連用形(に)に付く、例えば、
(35)私の家は学校から遠くはないが、交通が不便です。
(36)給料は高くになったが、物価も高くなりました。
(37)この辺りは真夜中になっても、なかなか静かにはなりません。
(38)生活は確かに豊かにはなりましたが、精神は貧弱になりましだ。
副詞にも付くことができる。例えば、
(39)一応はそう結論できる。
(40)これで。まずは大丈夫。
格助詞の「に、で、へ、と、より、から」、副助詞の「まで、だけ、ばかり、くらい、
ほど、など、か」、係助詞の「こそ」などに付くことができる。例えば、
(41)王さんは教室にはいません。
(42)室内では帽子をぬぎなさい。
(43)東京へは何度も行きました。
(44)田中先生とは会えませんでした。
(45)これよりはそのほうがいいです。
(46)ここからは歩いて三分しかかかりません。
(47)私は毎日十二時まで起きています。
(48)それだけは信じてください。
(49)こればかりは、勘弁しでください。
(50)毎月の生活費は十万円ぐらいはかかるど思います。
(51)東京は北京ほどは寒くありません。
(52)会社の中で僕などは若いほうです。
(53)その日はいつかは来るでしょう。
(54)彼こそは、英雄中の英雄だ。
まだ、接続助詞の「て」の後にもよく付く。
(55)車内では、タバコを吸ってはいけません。
(56)夜テレビを見ては、勉強しています。
等の類である。以上のように[は]が種々のものに接続することが分かる。「は」によって統括される部分は意味を強められ、あるいは主題として取り立てられることになるのである。
三、おわりに
「は」と「が」の用法上の違いはまだまだたくさん検討すべき点があると思うが、本稿はただ外国人日本語教師として六つの面から論じたものにとどまっている。不充分な点や間違った所が少なからずあるにちがいない。助詞―般の問題を含みつつ、今後の諜題としてもっと深く研究していきたいと願っでいる。
参考文献
江副隆秀 ≪外国人に教える日本語文法人門≫(1987年3月Ⅱ日第一刷 創拓社)
松村明 ≪日本文法大辞典≫(昭和46年10月15日発行 明治書院)
大野晋 ≪文法と語彙≫(1987年2月 岩波書店)
北原保雄 ≪主題をめぐる問題―[は]と[が]ー≫≪日本語の世界6、日本譜の文法≫
(昭和56年9月26日発行 中央公論社)
橋本進吉 ≪助詞、助動詞の研究≫(昭和44年11月29日 岩波書店)
久野 ≪日本文法研究≫(1973年6月20日初版発行 大修鯨書店)
鈴木--彦-林巨樹 ≪研究資料日本文法≫(昭和59年5月25日 明治書院)
井上和子 ≪日本文法小事典≫(1989年4月10日初版発行 大修館書院)
腕部四郎、大野晋、坂倉篤義、松村明 ≪日本の言語学、第三巻 文法Ⅰ≫11978年6月1日 大修館書店)
三上章 ≪象は鼻が長い≫(1960年10月30日第-版 くろしお出版)